「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」とは何ですか?

 GHQ(連合国軍最高司令部)が日本を占領していた7年間、日本の歴史や文化・伝統を破壊し、日本人の精神を改造するために行った政治宣伝のことです。具体的には戦争をしたことに対する罪悪感(自虐史観)を日本人に植え付けることで、企画したのはCIE(民間情報教育局)でした。

 CIEの本部はNHKの中に置かれました。当時まだテレビはなかったので、ラジオ番組で日本軍の残虐行為をあたかも事実であるかのように何度も繰り返し放送しました。ラジオでの洗脳を徹底させるために1945年11月13日、GHQは日本政府に「400万台のラジオを国民に支給せよ」と命令しています。当時まだ食糧事情が悪く、餓死する人もいたにもかかわらず、GHQは米よりもラジオ支給を優先させていたのです。それまで使っていた「大東亜戦争」という呼称は禁止され「太平洋戦争」に直されました。

9月1日、GHQは共同通信に対して連合国側が不利になるニュースの配信を禁止する指令を出し、9月19日に検閲の指針となる「プレス・コード」を発令しました。これ以降、新聞・雑誌は「プレス・コード」に従って検閲されるようになりました。GHQがメディアを統制することを急いだのは極東国際軍事裁判(東京裁判)が迫っていたからです。裁判で日本の政治家や軍人たちを戦犯として裁いた時、国民が反発しないように予め日本軍=悪という刷り込みが必要だったのです。

12月31日、GHQはそれまで小学校で使っていた修身、国史、地理の教科書を回収し、パルプ工場に送れという指令を出しました。翌年3月17日に「焚書」指令が出され、米沢郊外で4万4千冊の本が「焚書」にされました。
このようにGHQは日本列島をマインド・コントロールの実験場として政策を着々と進めていましたが、裏で操っているGHQが国民からは見えなかったために国民にはまるで日本政府がやっているように見えました。政府がそれまでと180度、違う政策を行なっているように見えたので国民は政府に対する信頼感を失って行きました。同じ敗戦国のドイツと比べて日本人がより自虐的になったのは、占領中のドイツは政府が崩壊していたのでGHQに直接、管理されたのに対して日本の場合は政府は残っていたので洗脳されているという自覚がなく、自虐史観を正史と信じてしまったためでしょう。

マッカーサーはどのような人物だったのですか?

 GHQ最高司令官、マッカーサーが厚木飛行場に到着したのは1945年8月30日でした。一面、焼け野原となった東京の惨状はマッカーサーの想像以上のものでした。3月10日の東京大空襲でアメリカは日本の民間人、約11万人を一夜にして焼き殺し、民家の4割を灰にしました。これは非戦闘員とその住居に対する許しがたい戦争犯罪であり、もちろん国際法違反です。東京の惨状を見たマッカーサーはおそらく恐怖にかられたことでしょう。そして、この戦争犯罪を正当化するためにアメリカ=善、日本=悪という構図を徹底的に日本人に刷り込まねば、と思ったのではないでしょうか。

マッカーサーが乗ってきた飛行機「バタアン号」の名前はフィリピンのバターン半島からとったものです。マッカーサーの父、アーサ・マッカーサーは1898年の米西戦争でスペインを破り、スペインから奪ったフィリピンを統治した人物です。息子のマッカーサーも軍人生活のほとんどをフィリピンで過ごしました。しかし1942年、マッカーサーはバターン半島で日本軍に敗北し、フィリピン軍将兵を置き去りにしたまま自分だけオーストラリアに逃げました。この時、ヒットラーからは「逃走将軍」、ムッソリーニからは「卑怯者」と罵られています。

マッカーサーはこの時の屈辱をのちにマニラ軍事法廷で裁判という形で晴らします。自分を敗走させた山下奉文大将と本間雅晴中将を、証拠もないまま、米軍捕虜虐待の罪で処刑したのです。マニラ軍事法廷の5人の裁判官は全員、マーカーサーの部下としてバターン半島で戦い、降伏した軍人でした。つまり、マニラ軍事法廷は裁判に名を借りたリンチだったのです。

日本は「無条件降伏」したのですか?

 1945年9月2日、アメリカの戦艦ミズーリ号の船上で日本は「ポツダム宣言」を受諾しました。これは国際法上は条件つきの終戦、あるいは有条件降伏でした。ポツダム宣言第10項(日本国の権利<連合国の義務>)には「言論・宗教及び思想の自由、ならびに基本的人権の尊重は確立せらるべし」とあります。また第13項には「日本国政府は直ちに全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し」とあり、無条件降伏をしたのは軍隊だけであって、政府ではないということが分かります。しかしマッカーサーは占領政策の障害となるこれらの項目を無力化するためにポツダム宣言受諾の調印式を「降伏文書」調印式と称し、日本は「無条件」降伏したのだという宣伝を始めました。

9月6日、アメリカ政府はトルーマン大統領の承認を得て「マッカーサーGHQ最高司令官の権限に関する通達」を発令しました。その内容は「われわれと日本との関係は契約的基礎の上に立っているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高である」というものでした。この時点で以後の日本人改造計画の流れは決まったのです。


なぜ朝日新聞は戦前と戦後で論調を180度変えたのですか?

 朝日新聞は今でこそ「自虐史観の宣伝機関」と化してしまいましたが、戦前は戦意高揚のためなら記事の捏造もいとわないほど戦争に協力的でした。しかし1945年9月18日、衝撃的な事件が起きました。15日と17日に朝日新聞に掲載された鳩山一郎氏の談話がGHQの怒りを買ったのです。

GHQは18日、日本政府に対して「2日間、朝日新聞の発行を停止させること」を命じ、マッカーサーは同時に「連合国はいかなる点においても、日本国と連合国を平等とみなさないことを、日本が明確に理解するよう希望する。日本は文明諸国間に地位を占める権利を認められていない敗北せる敵である。最高司令官は日本政府に対して命令する。交渉はしない」という声明を出しました。

朝日新聞が2日間も発行できなくなったことは、爆撃で社屋が被災した時ですらなかったことです。このことがあって以来、朝日新聞はGHQにすり寄るようになりました。日本人を洗脳するラジオ番組「真相箱」の編集にも協力し、受付では『スターズ・アンド・ストライプス(星条旗)』を配布しました。現在の朝日新聞の論調が「反日」であることは占領期間、GHQの手先となって働いたことによる当然の結果でしょう。

占領下の日本人の生活はどのようなものだったのですか?

 占領中は情報統制が行なわれていたため、国内で何が起きていたかはほとんど国民に知らされませんでした。しかし実際には米軍海兵隊が横須賀に上陸した8月30日、いきなり強姦事件が起きていました。それを記録していたのは特別高等警察(特高)でした。治安維持法がなくなり、監視する対象がいなくなった特高は進駐軍の不法行為を記録していたのです。

特高は1945年10月4日に解散命令を受けますが、8月30日から10月4日までの1カ月余りに記録が残っているだけで強姦37件、その他の米軍による不法行為945件が起きています。

日本政府は進駐軍のために慰安所が必要だと考え、1945年8月28日、「関東地区駐屯軍将校ならびに一般兵士の慰安のため」「特殊慰安施設協会」が設立されました。しかし、それでも日本女性の貞操を守ることはできませんでした。日本が主権を回復し、米軍が日本を去るまで膨大な数の女性が強姦され、恐怖に怯える生活を強いられたと思われます。

1946年4月、東京の大森で恐ろしい事件が起きました。中村病院という病院に3台のトラックに分乗した米兵が乱入し、婦人患者のうち重症者をのぞく40数人と看護婦17人、15人から20人の付添婦・雑役婦などが強姦されるという、前代未聞の事件です。戦争が終わっても日本国民に平穏な生活が戻ったわけではなく、苦難の日々は延々と続いていたのです。

『菊と刀』とはどのような本ですか?

 『菊と刀』は人類学者ルース・ベネディクトが書いたもので、菊は天皇、刀は指導者層を指しています(長谷川松治訳『菊と刀』講談社学術文庫)。これは日本人の精神をどのように武装解除してアメリカの利益になる国に造り変えることができるか、という研究です。結論としては、何よりもまず日本の指導者層を権力機構から排除すること、と書かれています。

1945年10月4日の「民権自由に関する覚書」により10月13日付けで6202人が公職から追放され、10月30日の「教職パージに関する覚書」により1946年1月4日「公職追放指令」が発令、3月10日には「軍国主義指導者の追放」指令が出されました。

公職から追放された人はA項からG項まで7項目に分類されていました。記者・文化人を含むG項がもっとも多く、なんと19万人以上いました。公職追放者に指定された人は合計21万人でしたが、本人だけではなく三親等までが追放の対象だったので、ある日突然、100万人以上のわが国の指導者が排除され、総入れ替えするという有史以来初めての異常な大事件が起きたのです。戦後の日本人を変質させたもっとも罪深い政策は公職追放でしょう。

「ショック・ドクトリン」とは何ですか?

 京都大学准教授の中野剛志氏は敗戦後の日本人の心理をこの概念を用いて分析しています。『ショック・ドクトリン』(ナオミ・クライン著)によると人間は何か大きなショックを受けると意識が空白状態になり、過去の記憶が一時的に失われるそうです。CIAは捕虜の人格を改造する時、何かショックや恐怖を与え、そのあと単純な論理を徹底的に刷り込むそうです。

1946年3月20日、CIE(民間情報教育局)のダイク代将は日本人に対する洗脳政策について第4回極東委員会に次のように報告しています。「指令を発する敏速さはいわば戦争中の戦略にもたとえられようかと思います。現在なお、いくさなのです。日本は、一種の戦闘状態にあると私は言いたいのです。平時の作戦ではないのです。と申しますのは、戦闘中は相手のバランスを崩そうとします。右のジャブをうまく出し、相手が立ち直る前に左のジャブを出すということです」。

GHQの占領期間に少年期から青年期を過ごした世代は敗戦や原爆などで、いわばショック療法を施された患者と言えるでしょう。占領下の混乱期、それまで信じていた価値観が信じられなくなり、何が何だか分からない茫然自失状態で次々と出されるGHQの政策を無意識のうちに受け入れていたと思われます。それほどGHQによる洗脳は過酷であり、そこから脱却することは困難なのかも知れません。

参考文献:水間政憲『「反日」包囲網の正体』(PHP研究所)


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